スタジオジブリの傑作アニメーション映画『もののけ姫』。自然と人間の対立という壮大なテーマを描いた本作において、最も複雑で魅力的なキャラクターの一人が、タタラ場を率いるエボシ御前です。
彼女は、森の神々から見れば自然を破壊する恐ろしい敵ですが、タタラ場に住む人々にとっては、生活と命を守ってくれる絶対的な指導者であり、救い主でもあります。その彼女の「慈愛」を最も象徴しているのが、タタラ場の奥深くで保護され、全身に包帯を巻いて働いている「病者の者たち」の存在です。
実は、彼らのモデルが「ハンセン病患者」であることは、宮崎駿監督自身によって公式に明言されています。
本記事では、エボシ御前とハンセン病患者(作中の病者たち)の深い関係性について、作中の描写や宮崎監督の思い、そして彼らが物語においてどのような役割を果たしているのかを徹底的に解説・考察していきます。
作中に登場する「包帯の人々」の描写と正体
映画の中盤、主人公のアシタカがタタラ場を訪れた際、エボシ御前に案内されて足を踏み入れるのが、厳重に隔離された離れにある秘密の工房です。そこには、全身を白い包帯で覆い、手足が不自由な状態でありながらも、最新の武器である「石火矢(いしびや)」の製造に携わる人々がいました。
1. 「業病(ごうびょう)」として社会から迫害された人々
作中で彼らは自らの病を「業病(ごうびょう)」と呼んでいます。業病とは、前世の悪行の報いとしてかかると信じられていた、治る見込みのない恐ろしい病気を指す古い言葉です。
『もののけ姫』の舞台である室町時代後期において、このような外見に重篤な変化をもたらす病に罹った人々は、「呪われた者」「穢れた者」として激しい差別と偏見に晒され、社会から完全に排除されていました。家族からも見放され、まともな生活を送ることはおろか、生き延びることすら困難な絶望的な状況に置かれていたのです。
2. なぜ彼らは包帯を巻いているのか?
彼らが全身に包帯を巻いているのは、病によって皮膚や手足が崩れ落ちてしまうのを防ぐため、そして傷口を保護するためです。作中の病者の長(おさ)は寝たきりであり、他の者たちも手元がおぼつかない様子が丁寧に描かれています。これは、病による末梢神経の麻痺や体の一部が欠損していくという、ハンセン病の実際の症状をリアルに反映した描写です。
宮崎駿監督が明言した「ハンセン病」というモデルと背景
アニメーションというエンターテインメント作品において、なぜこれほどまでに重く、タブー視されがちな「ハンセン病」という歴史的背景を物語に組み込んだのでしょうか。そこには、宮崎駿監督の強い覚悟と体験がありました。
「多磨全生園」での経験と監督の思い
宮崎監督は『もののけ姫』を制作するにあたり、東京都東村山市にある国立ハンセン病療養所「多磨全生園」と、隣接する国立ハンセン病資料館を度々訪れました。そこで、長年にわたって社会から隔離され、筆舌に尽くしがたい差別や苦難の歴史を生きてきた入所者の方々と交流し、その日常や残された遺品に直接触れました。
監督は当時のことを振り返り、「彼らがどれほどの絶望の中で、それでも生きようとしてきたのかを知った」「人間の『業』や『生きる意味』を描こうとする本作において、彼らのような存在を描かずに通り過ぎることはできないと思った」という趣旨の発言をしています。
つまり、タタラ場の病者たちは、単なるファンタジーの設定として生み出されたのではなく、現実の日本の歴史における過酷な差別の被害者たちへの深い理解と鎮魂の思いから描かれたキャラクターなのです。
エボシ御前が彼らに与えた「生きる意味」と尊厳
この重い背景を踏まえて作中のエボシ御前の行動を見ると、彼女がどれほど型破りで、深く大きな器を持った人物であるかが浮き彫りになります。
1. 自らの手で傷を洗い、人間として扱う
世間の人々が恐れ、近寄ることさえしなかった病者たちに対し、エボシ御前は自ら彼らの元へ通いました。作中で病者の長が「わしらの腐った肉を洗い、布を巻いてくれたのはあの人だけだ」と語る通り、エボシは彼らを穢れとして遠ざけるどころか、直接触れ合い、看病をしました。
当時の価値観からすれば、これは信じがたい異常な行動です。しかしエボシは、神仏の呪いといった迷信を一切信じず、彼らを一人の「人間」として扱い、生きる場所を与えたのです。社会から存在を抹消されていた彼らにとって、エボシに人間として認められたことは、どれほどの救いだったでしょうか。
2. 「仕事」を与えることで取り戻させた生きる尊厳
さらに重要なのは、エボシが彼らを単なる「かわいそうな病人」として保護し、隔離して養うだけではなかった点です。彼女は彼らに、タタラ場の存亡と未来を担う最新兵器「新しい石火矢の製造」という極めて重要な仕事を任せました。
手足が不自由で重労働(鉄を打つなど)ができない彼らに、細かい知識や技術を要する武器開発を任せることで、「自分たちもタタラ場のために役に立っている」「必要とされている」という強烈な自負と生きがいを与えたのです。
ただ命を永らえさせるだけでなく、「生きる目的」と「人間の尊厳」を取り戻させたからこそ、病者たちはエボシ御前のためならば自らの命を削ってでも尽くそうとする深い忠誠心を持っています。
病者の長が放った名言「長を殺さないでおくれ」の重み
アシタカがタタラ場の工房を訪れ、エボシ御前のシシ神殺しの計画を知って怒りを露わにした際、布団に寝たきりの病者の長がアシタカに向けて重々しい口調で語りかけます。
「お若い人、わしも呪われた身ゆえ、あなたの怒りや悲しみはよくわかる。わかるが、どうかその人を殺さないでおくれ。あの人はわしらを人間として扱ってくださった、たった一人の人だ」
このセリフは、『もののけ姫』という作品を読み解く上で最も重要な核心を突く言葉の一つです。
善と悪では割り切れない現実の複雑さ
森の神々やアシタカの視点から見れば、自然を焼き払い、神殺しを目論むエボシ御前は「悪」そのものです。しかし、社会の最底辺で見捨てられ、地獄のような苦しみを味わってきた病者たちから見れば、エボシ御前は唯一の希望であり、絶対的な「善(神仏のような存在)」なのです。
誰かにとっての正義は、別の誰かにとっての悪になり得る。「自然を守ることは正しいが、では自然を壊してでも生き延びようとする弱者たちを見殺しにしてもいいのか?」という、簡単には答えの出ない究極の問いが、病者の長の切実な願いに凝縮されています。
宮崎監督は、ハンセン病患者をモデルにした彼らを登場させることで、勧善懲悪の単純なストーリーを徹底的に破壊し、「それでも共に生きていくしかない」という重く深い人間ドラマを描き切りました。
まとめ:エボシ御前と病者たちが物語に与えた深み
『もののけ姫』におけるタタラ場の「包帯の人々」は、日本の歴史上で激しい差別を受けてきたハンセン病患者がモデルになっていました。
エボシ御前と彼らの関係性は、単なる支配者と被支配者ではなく、互いに必要とし合う魂の救済の関係です。社会から見捨てられた人々に「尊厳」と「生きる意味」を与えたエボシ御前の底知れぬ慈愛と強さがあるからこそ、私たちは彼女を単なる悪役として憎むことができません。
『もののけ姫』の本当の凄みは、自然の美しさだけでなく、こうした人間の業の深さや、どん底でも光を見出そうとする人間の逞しさが描かれている点にあります。次に映画を鑑賞する際は、ぜひタタラ場の工房で必死に石火矢を作る彼らの姿と、エボシ御前のまなざしに注目してみてください。物語の奥深さが、より一層心に響くはずです。


